サプライチェーン人権・環境デューデリジェンス義務の深化:EU指令案が日本企業にもたらす実務上の影響と対応策
導入:高まるサプライチェーンにおける人権・環境デューデリジェンスへの要請
近年、グローバルサプライチェーンにおける人権侵害や環境破壊への企業の責任を問う声が高まり、国際社会において企業にデューデリジェンス(以下、「DD」という。)を義務付ける法制化の動きが加速しています。特に欧州連合(EU)で議論が進む「企業持続可能性デューデリジェンス指令(Corporate Sustainability Due Diligence Directive, CSDDD)案」は、その射程の広さと法的強制力から、EU域内外の企業、特にグローバルに事業展開する総合商社にとって、その動向を注視し、早期の対応を検討すべき重要な法規制であると考えられます。
本稿では、CSDDD案の主要な内容、その背景にある国際的な動向、そして日本企業、特に総合商社の法務部門が直面するであろう実務上の課題と、取るべき具体的なコンプライアンス対策について深く掘り下げて解説いたします。
EU企業持続可能性デューデリジェンス指令(CSDDD)案の詳解
1. 立法背景と国際的な潮流
CSDDD案は、国連の「ビジネスと人権に関する指導原則(UNGP)」やOECDの「多国籍企業行動指針(OECD Guidelines for Multinational Enterprises on Responsible Business Conduct)」に示される概念を、努力義務から法的拘束力のある義務へと昇華させようとする動きの一環です。これらの国際的な枠組みは、企業がサプライチェーン全体において人権や環境への負の影響を特定し、防止し、軽減し、是正する責任を負うことを示唆していましたが、CSDDD案はこれを具体的な法的義務として課すものです。
2. 指令案の主要な内容
CSDDD案は、企業がサプライチェーン全体にわたる人権および環境への負の影響を特定し、防止、軽減、是正するためのDDを実施することを義務付けています。
- 対象企業:
- EU域内企業: 特定の従業員数および売上高基準を満たす企業。
- EU域外企業: EU域内で特定の売上高基準を満たす企業。このEU域外企業への適用が、グローバルに展開する日本企業にとって直接的な影響をもたらします。例えば、総合商社のグループ会社がEU域内に存在し、その売上高が基準を満たす場合、親会社を含むサプライチェーン全体に指令が及ぶ可能性があります。
- 義務の範囲: 企業は、自社の事業、子会社、そして間接的なビジネス関係(上流および下流のバリューチェーン)における人権および環境への負の影響に対してDDを実施する義務を負います。特にバリューチェーン全体への適用は、サプライヤー管理の複雑性を大幅に増大させます。
- 義務の内容(デューデリジェンスの6ステップ):
- 政策の導入: DDに関する方針を明確に定め、企業戦略に統合すること。
- 負の影響の特定と評価: サプライチェーン全体において潜在的・実際の人権・環境への負の影響を特定し、評価すること。
- 負の影響の予防、軽減、停止、最小化: 特定されたリスクに対する予防計画を策定し、是正措置を講じること。これには、サプライヤーとの契約における行動規範(Code of Conduct, COC)の導入や見直し、サプライヤーに対する能力構築支援などが含まれます。
- 苦情処理メカニズムの確立: 利害関係者(サプライチェーン上の労働者、地域住民など)が懸念を表明できる苦情処理メカニズムを設置すること。
- DD措置のモニタリング: DD措置の有効性を定期的に評価し、改善すること。
- 開示: DDの実施状況を透明性をもって公表すること。
- 取締役の役割と民事責任: 指令案は、取締役会がDD方針を承認し、その実施を監督する責任を負うことを明記しています。また、企業がDD義務を履行しなかった結果として損害が生じた場合、民事責任を負う可能性があるとされており、被害者が損害賠償を請求できる法的根拠を提供するものとなります。監督当局による制裁金も課される可能性があります。
3. ドイツサプライチェーン・デューデリジェンス法(LkSG)との比較
CSDDD案は、2023年1月に施行されたドイツの「サプライチェーン・デューデリジェンス法(LkSG)」と多くの共通点を持つ一方で、いくつかの重要な相違点があります。 LkSGは、当初は従業員数3,000人以上の企業に適用され、人権と環境に関する特定のリスクを対象としています。しかし、CSDDD案はより広範な企業に適用され、バリューチェーン全体への適用範囲がより明確である点、そして民事責任規定が明示されている点が特徴的です。LkSGは現時点では民事責任を直接的に規定していませんが、CSDDD案の成立により、欧州全体で民事責任リスクが高まることになります。
実務上の論点と推奨されるコンプライアンス対策
グローバルサプライチェーンを持つ総合商社にとって、CSDDD案は既存のコンプライアンス体制、特にサプライヤー管理とリスク評価の抜本的な見直しを迫るものです。
1. サプライヤー選定・契約における対応
- 契約条項への織り込み: 新規・既存のサプライヤー契約において、人権・環境デューデリジェンスの実施、COCの遵守、監査受け入れ義務、違反時の是正措置・契約解除権などを明記した条項を導入または強化することが推奨されます。
- 行動規範(COC)の導入・見直し: 自社のCOCを国際基準に照らして見直し、人権と環境に関する具体的な要件を盛り込み、サプライヤーへの周知徹底と同意取得を進める必要があります。
2. リスク評価プロセスの構築
- 体系的なリスク特定: サプライチェーンの地理的リスク(高リスク国・地域)、セクター固有のリスク(例えば、鉱物採掘、アパレル、農業などにおける人権侵害リスク)、および個々のサプライヤーのリスクを体系的に特定し、評価する体制を構築します。第三者評価機関の活用も有効な手段です。
- 「重大な」負の影響の特定: CSDDD案は、特定された負の影響の「重大性」に応じて優先順位付けと対応を求めています。これには、影響の深刻度、影響を受ける人々の数、影響の回復可能性などが考慮されるべきです。
3. モニタリングと監査体制の強化
- 定期的な評価: サプライヤーのCOC遵守状況やDD措置の有効性を定期的にモニタリングし、必要に応じて是正措置を講じるための監査体制を構築します。リモート監査とオンサイト監査を組み合わせることも有効です。
- サプライヤーへの能力構築支援: サプライヤーがDD義務を果たすためのキャパシティビルディング支援(トレーニング、情報提供など)も、単なる要求に留まらない関係構築のために重要です。
4. 苦情処理メカニズムの整備
- アクセス可能なメカニズム: サプライチェーン上の労働者や地域住民が匿名で人権侵害や環境破壊に関する懸念を報告できる、アクセス可能で信頼性の高い苦情処理メカニズム(グリーバンスメカニズム)を整備することが不可欠です。独立した第三者機関への委託も選択肢となります。
5. 情報開示と透明性の向上
- 適切な情報開示: CSDDD案に基づき、企業はDDの実施状況や特定されたリスク、講じた措置について定期的に公表する義務を負います。ESG報告書や統合報告書などにおいて、信頼性と透明性の高い情報開示が求められます。
関連する国際動向と今後の見通し
CSDDD案の議論が進む一方で、世界各国で人権DDに関する法制化の動きが活発化しています。
- フランス企業注意義務法: 2017年に施行され、人権と環境DDを義務付けています。
- オランダ児童労働デューデリジェンス法: 2019年に成立しましたが、施行は延期されています。
- 米国における強制労働防止法(UFLPA): 中国新疆ウイグル自治区からの強制労働によって生産された製品の輸入を原則禁止するものであり、米国市場へのアクセスを確保するためには、サプライチェーンにおける強制労働リスクの徹底的な排除が不可欠です。これは、特定の地域・製品に焦点を当てた、いわば「逆デューデリジェンス」の動きとして、日本企業にも多大な影響を与えています。
これらの動きは、グローバルサプライチェーンにおける人権・環境リスク管理が、企業の「社会的責任」から「法的義務」へと移行していることを明確に示しています。将来的には、これらの法規制が国際的な標準として収斂し、より厳格なコンプライアンスが求められるようになる可能性が高いと考えられます。日本国内でも、「ビジネスと人権に関する行動計画」が策定され、人権DDの促進に向けた議論が進んでおり、将来的な法制化の可能性も視野に入れるべきです。
結論:事業戦略と一体となった実効的なDD体制の構築
EU企業持続可能性デューデリジェンス指令案は、単なる努力義務を超え、法的義務と民事責任という明確な法的リスクを伴うものです。グローバルに複雑なサプライチェーンを持つ総合商社にとって、この指令案への対応は、従来の契約法務やコンプライアンスの枠を超え、事業部門との連携を密にし、事業戦略と一体となった実効的なDD体制を構築することが不可欠となります。
法務部門は、単なる法規制の解釈に留まらず、各事業部門におけるサプライヤー管理の実態を深く理解し、リスク評価と対策のリード役を果たすことが期待されます。早期に専門家との連携を図りながら、自社のサプライチェーン全体を俯瞰し、脆弱性を特定し、強固なコンプライアンス体制を構築することが、持続可能な企業価値の向上と、国際社会からの信頼獲得に繋がる重要なステップであると言えるでしょう。