サプライチェーンESG情報開示義務の強化:EU CSRDとISSBが日本企業に求める新たな統制と実務的対応
導入:グローバルなESG情報開示義務の波とサプライチェーンの重要性
近年、サステナビリティに関する情報開示義務が国際的に急速に強化されており、これまでの自主的な開示から、法的拘束力を持つ義務へとパラダイムシフトが生じています。特に、EUの企業持続可能性報告指令(Corporate Sustainability Reporting Directive: CSRD)と、国際サステナビリティ基準審議会(International Sustainability Standards Board: ISSB)が公表したグローバルベースライン基準は、企業のサプライチェーン全体にわたるESGデータの収集、検証、開示を義務付けるものであり、多岐にわたる事業を展開し、複雑なグローバルサプライチェーンを持つ総合商社にとって、その影響は極めて大きいものと認識されています。
本稿では、これらの最新動向を詳細に解説し、日本企業、特に貴社の法務部門が直面する課題、その法的解釈、推奨されるコンプライアンス対策について、実践的な視点から考察いたします。単なる開示要件の充足に留まらず、新たな情報統制の構築とリスク管理の強化に資する情報を提供することを目的としています。
EU企業持続可能性報告指令(CSRD)の概要とサプライチェーンへの影響
CSRDは、EU域内の大企業に加え、EU域外に主要な事業を有する一定規模以上の企業(EU内での純売上高が年間1億5,000万ユーロを超え、かつEU域内に大企業または上場子会社を持つ場合など)に対しても報告義務を課す可能性があり、日本企業もその対象となり得ます。その主要なポイントは以下の通りです。
1. 適用範囲と報告スケジュール
CSRDは段階的に適用が開始され、2024年会計年度(2025年報告)から大手上場企業等に義務付けられ、その後、その他の大企業、上場中小企業へと拡大します。非EU企業についても、EU域内で年間1億5,000万ユーロ超の純売上高を有し、かつEU域内に少なくとも1つの大企業の子会社または上場子会社・支店を持つ場合、2028年会計年度(2029年報告)から開示義務が生じる見込みです。貴社のような総合商社においては、EU域内の事業規模や子会社の状況により、報告義務が直接的に発生する可能性を慎重に検討する必要があります。
2. 報告基準「ESRS」と「ダブル・マテリアリティ」
CSRDに基づく報告は、欧州サステナビリティ報告基準(European Sustainability Reporting Standards: ESRS)に従って行われます。ESRSは、環境(E)、社会(S)、ガバナンス(G)の各側面について詳細な開示要求を定めており、その特徴は「ダブル・マテリアリティ」原則にあります。これは、企業が事業活動を通じて環境・社会に与える影響(インパクト・マテリアリティ)と、環境・社会の動向が企業の財務に与える影響(財務マテリアリティ)の両面から重要性を評価し、開示すべき事項を特定するものです。
特に、サプライチェーンに関する開示はESRSの各基準において横断的に求められており、例えば、環境に関するESRS E1(気候変動)ではスコープ3排出量の開示が、ESRS S2(サプライチェーンにおける労働者)ではサプライヤーにおける労働条件に関する情報開示が必須となります。これには、一次サプライヤーだけでなく、より深くバリューチェーン全体を遡った情報が含まれる可能性も否定できません。
3. サプライチェーンにおける情報収集とデューデリジェンスの要求
CSRDは、サプライチェーン全体のリスクと機会に関する情報開示を求めるため、企業は自社の直接的な活動だけでなく、サプライヤーや顧客を含むバリューチェーン全体におけるESG情報を把握する必要があります。これは、単なる情報収集に留まらず、実効性のあるデューデリジェンスの実施を前提としています。具体的には、人権侵害リスク、環境負荷、腐敗防止といった側面について、サプライヤー選定基準、契約条項、モニタリング体制、是正措置、苦情処理メカニズムなどの開示が求められます。
この要求は、サプライチェーンにおける人権・環境デューデリジェンス法制(ドイツのサプライチェーン・デューデリジェンス法や、現在EUで審議中の企業サステナビリティ・デューデリジェンス指令案など)との連携も意識されており、単なる情報開示目的だけでなく、実効的なリスク管理体制の構築が不可欠であると考えられます。
ISSB基準(S1, S2)の概要とCSRDとの関係性
ISSBは、投資家にとって有用なサステナビリティ関連財務情報のグローバルベースラインを確立することを目的に設立され、2023年6月に「S1:サステナビリティ関連財務情報の開示に関する全般的要求事項」および「S2:気候関連開示」を公表しました。
1. S1およびS2基準の目的と内容
S1は、企業がサステナビリティ関連のリスクと機会に関する情報を開示する際の全体的な要求事項を定めており、企業価値創造に関連する情報に焦点を当てています。S2は、気候関連のリスクと機会について、ガバナンス、戦略、リスク管理、指標と目標という4つの主要な要素に沿って開示を求めるものです。特にS2では、GHG排出量(スコープ1, 2, 3)や、気候関連リスク・機会が企業の戦略や財務計画に与える影響についての開示が求められます。
2. CSRDとISSB基準の連携と相違
CSRDとISSB基準は、ともにサステナビリティ開示の強化を目的としていますが、その目的とスコープには違いがあります。ISSB基準は、主に投資家が企業価値を評価するために必要な財務マテリアリティに焦点を当てた「シングル・マテリアリティ」の考え方に基づいています。これに対し、CSRD/ESRSは、企業が社会・環境に与える影響も重視する「ダブル・マテリアリティ」の考え方を採用しており、より広範なステークホルダーへの説明責任を意識しています。
しかし、欧州委員会は、ESRSがISSB基準と高度に相互運用可能であるように設計されていると表明しており、多くの開示項目で重複や整合性が図られています。このため、CSRDに対応する企業は、ISSB基準への対応も比較的容易になることが期待されます。グローバルに事業を展開する企業にとっては、両者の要件を理解し、効率的なデータ収集・報告体制を構築することが重要となります。
日本企業の課題と実務上のリスク
グローバルなESG情報開示義務の強化は、日本企業、特に総合商社に以下の実務的な課題とリスクをもたらします。
1. サプライチェーン全体でのデータ収集の困難性
多様な業種と地域にまたがるサプライチェーンを持つ総合商社にとって、多数のサプライヤーから詳細なESGデータ(特に温室効果ガス排出量、人権に関する情報、資源消費量など)を網羅的かつ継続的に収集することは、極めて大きな労力を伴います。中小企業や海外のサプライヤーは、データ収集体制が未整備である場合も多く、情報の精度や信頼性の確保が課題となります。
2. 情報の検証可能性と信頼性の確保
開示されるESG情報は、監査法人による保証(限定的保証から合理的保証へ移行)の対象となることがCSRDで義務付けられています。このため、収集されたデータの信頼性を担保し、第三者が検証可能なエビデンスを確保するための内部統制システムを構築する必要があります。不正確な開示は、いわゆる「グリーンウォッシュ」としてレピュテーションリスクや法的責任に繋がりかねません。
3. 契約上の義務と取引先への協力要請
ESG情報開示義務の履行のためには、サプライヤーとの間で情報提供や監査への協力に関する契約条項を新たに設ける、または既存の契約を改訂することが必要になる場合があります。これにより、取引先との関係性や交渉力、法的強制力の範囲が法務部門の重要な検討事項となります。また、サプライヤーに対する情報収集協力のための教育や能力開発支援も求められる可能性があります。
4. 法務部門の役割の拡大
ESG情報の開示は、もはや広報やIR部門だけの担当事項ではなく、法務部門が深く関与すべき領域です。開示内容の法的正確性、リスク評価、契約条項のレビュー、デューデリジェンスの法的枠組みの構築、潜在的な訴訟リスクの特定と管理など、多岐にわたる専門知識が求められます。
推奨されるコンプライアンス対策と今後の展望
上記の課題とリスクを踏まえ、総合商社が取るべきコンプライアンス対策は以下の通りです。
1. サステナビリティ・ガバナンス体制の強化
取締役会レベルでのサステナビリティ戦略の策定と監督、専門委員会の設置、CPO(Chief Purpose Officer)やCSO(Chief Sustainability Officer)等の経営層による責任者の配置など、全社的なガバナンス体制を強化することが不可欠です。法務部門は、このガバナンス体制が法的に適切かつ実効性のあるものであるかを評価し、助言する役割を担います。
2. サプライチェーンESG情報収集システムの構築とデジタル化
サプライヤーからのESGデータを効率的かつ正確に収集・管理するためのデジタルプラットフォームやデータベースの導入が推奨されます。AIやブロックチェーン技術の活用も、データの追跡可能性と信頼性を高める上で有効な手段となり得ます。標準化された質問票の導入、第三者認証の活用も検討されるべきです。
3. サプライヤーとの連携強化と契約マネジメント
サプライヤーに対し、ESG情報の提供およびデューデリジェンス協力に関する明確な方針を伝え、契約書に当該義務を明記することが重要です。また、サプライヤーのESG能力向上を支援するためのトレーニングプログラムや、インセンティブ制度の導入も効果的です。法務部門は、契約書の改訂や新たな約款の作成、紛争解決メカニズムの検討を主導する必要があります。
4. 開示プロセスの透明化と内部統制の整備
開示情報の信頼性を確保するため、データの収集から集計、報告に至るまでのプロセスにおいて、適切な内部統制を整備し、その有効性を継続的に評価することが求められます。内部監査機能の強化や、外部の専門家によるレビューの活用も有効です。
5. 国際的なフレームワークとベストプラクティスの活用
TCFD(気候関連財務情報開示タスクフォース)やSASB(サステナビリティ会計基準審議会)など、既存の国際的な開示フレームワークの知見を最大限に活用し、ESRSやISSB基準への移行を円滑に進めることが推奨されます。また、同業他社や先行企業のベストプラクティスを研究し、自社に適したモデルを構築することも有効です。
結論:戦略的情報統制と協働の時代へ
サプライチェーンにおけるESG情報開示義務の強化は、単なる法令遵守を超え、企業のレジリエンス、競争力、そして持続的な企業価値向上に直結する戦略的な経営課題であると認識すべきです。貴社のような総合商社においては、複雑かつ広範なサプライチェーン全体を見渡した上での情報統制とリスク管理体制の構築が喫緊の課題となります。
法務部門は、これらの新たな法的要請と実務上の課題を深く理解し、経営層や関係部門と密接に連携しながら、情報収集から開示、監査、そしてサプライヤーエンゲージメントに至るまでの一連のプロセスにおいて、その専門知識を最大限に発揮することが期待されています。この変革期において、法令遵守を確実なものとし、持続可能なビジネスモデルを構築するための戦略的パートナーとしての役割が、これまで以上に重要となるでしょう。